2009年8月27日
クーデター
エリツィンはクーデターが未遂に終わったことを宣言した。午後2時になると国家非常事態委員会のメンバーがソ連国内から逃亡を始め(プーゴ内相は自殺)、エリツィンはメンバーの拘束指令を発する。午後4時20分にはヤゾフ国防相が全部隊のモスクワへの撤退命令をニュース放送で行う。午後4時55分にロシア代表団がクリミア半島に到着しゴルバチョフと面会、午後9時にはモスクワ放送が復活した。
8月22日の午前2時55分に攻撃を避けるための人質としてクリュチコフを帯同したゴルバチョフが搭乗したアエロフロートの特別機がモスクワのブヌコヴォ空港に到着した。クーデターの関係者は逮捕されたが、その首謀者達はゴルバチョフの側近だったため、皮肉にもゴルバチョフ自身を含むソ連共産党の信頼は失墜していた。午後0時にエリツィンはクーデターに対する勝利宣言を行う。これには市民20万人が参加したが、ゴルバチョフが姿を見せることはなかった。夕方にゴルバチョフはプレスセンターで記者会見を行う。同日夜になると、モスクワ中心街で共産党活動の禁止を要求するデモが行われた。
1991年12月までにソ連邦構成共和国はすべて独立を宣言した。また、新連邦条約についての交渉は新たに始まった。ソ連およびアメリカは、9月にバルト三国の独立を承認した。ゴルバチョフはモスクワ帰還後数か月の間、政権の安定と合法性を取り戻す為の努力を行ったがそれは不発に終わった。11月に7共和国が、主権共和国連邦結成条約に同意した。しかしウクライナは参加せず、エリツィンはロシアの利益を求め同意を破棄した。ソ連共産党が存在しない状態では、連邦構成共和国を協調させることができなかった。エリツィンはロシアが他の共和国の厳しい経済に対する責任を負うことになると考えたため、ロシアの新条約への参加は考えられなかった。
12月8日にエリツィンおよびベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチ最高会議議長、ウクライナのレオニード・クラフチュク大統領が、ベラルーシのベロヴェーシの森の旧フルシチョフ別荘で秘密裏に会合をもった。ここで彼らは、3国がソ連邦を設立した1922年の連合条約からの離脱と、独立国家共同体(CIS)を創設に、合意した(ベロヴェーシ合意)。中央アジア、アルメニアおよびアゼルバイジャンの5共和国を含め独立国家共同体を拡張するための署名式は、12月21日にアルマアタで執り行われた。グルジアは、ゴルバチョフの親友であったエドゥアルド・シェワルナゼがグルジア大統領となる1993年(ただし、1992年に国家評議会議長に就任しており、正式に大統領となったのは1995年)まで、これに参加しなかった。
ソビエト連邦は、1991年12月25日に、消滅した。ゴルバチョフが、エリツィンを共産党のモスクワ市委員会を運営するように任命した1985年12月25日からちょうど6年後のことだった。
翌日の8月23日、ゴルバチョフはロシア議会で今後のソビエト連邦と党に関する政見演説を行うが、議員達は彼の演説に耳を傾けることはなかった。エリツィンはソ連共産党系のロシア共産党活動停止の大統領令に署名を行う。翌8月24日、ゴルバチョフはソ連共産党書記長を辞任、資産を凍結し党中央委員会の自主解散を要求。ロシアはエストニアとラトビアの独立を承認した。クーデターからおよそ10日後の8月28日、ソ連議会がパヴロフ首相の不信任案を可決、ソ連最高会議は共産党の活動全面停止を決定。クーデターを支持した「プラウダ」等の共産党系新聞5紙が発禁処分となった。また、クーデターを支持したとしてタス通信、ノーボスチ通信の社長も解任された。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
ソ連共産党解体についても調べてみました。
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